「The letters」について-創作を再開する。
少し、日記が空いてしまった。
また時間ができたので書き始めたいと思う。
先日投稿した作品「The letters」について、コンセプトをここに書くことにした。
僕の主観では、自分の作品についてその背景から詳しく明記している作家はそんなにいないように感じる。
でも、僕はあまり自分の作品について語ることにデメリットを感じないし、人によって違う作品の受け取り方がある方が魅力的だと感じる作家もいるようだけど、事実、僕は一貫したテーマにそって作品を創っているし、みんなにそのことで嘘をつきたくはない。
多様性は確かに重要だけれど、むしろその多様性が、何とでも現実を認識できることこそが僕にとっては一つの救いでもあるし苦しみでもある。
だから、ここに書くこと、これから僕が作品について語るすべてのことは数ある解釈の中の一つとして受け取ってもらえるといいと思う。
自分でも自分が作った作品に全く異なるイメージを持つことがあるし、それが自己の投影のように感じたり、また救いに感じたりもする。
できることなら、この文章が誰かの救いになればいいと思う。
さて、本題に入ろう。
美術、創作という行為そのものに疑念を抱いた僕は全く作品が創れなくなってしまった。
創作することは誰かを救い、それと同時に誰かを傷つける行為であることに他ならない。
それを自覚した僕は、その事実を無視することができなくなった。
そもそも僕がものを創り始めたきっかけは、孤独感からだった気がする。
高校の時に美術予備校へ入り、基本的な受験絵画を勉強しているとき、真に自由な絵を描きたいと思った。
将来的な安定性も保証されないデザインの世界でただひたすらデッサンをし、人間関係にも不信に陥っていた中で「上の空」という作品の構想が浮かんだ。
たぶんそれが自分の初めてのオリジナルな構想だったと思う。
創作によって、自分の作品によって人と繋がりを持ちたい、自分を規定し、人に認知させたいという感情があった気がする。
ただの勘違いかもしれないけれど、、、
そこには明らかに承認欲求があったと思う。
今の自分にもそれがあることも僕は否定しない。
それからいくつか作品を製作していき、創作にどっぷり浸かっていく。そして、大学に入ってからちゃんと美術史について勉強するようになった。
そのせいで、今のような状況になってしまったのだけれど、確かに自分は前へ進んでいるとは思う。
何が自分の課題なのか、それを明確に認識し始めている。
その中で、創作を始めた当時から、いや、むしろそれよりずっと前から僕の悩んでいる「孤独感」について、このスランプだからこそ、より悩まさせられるようになった。
今まで創作によって誤魔化していた孤独感というものが、創作そのものによって深まっていく負のループ。
孤独感というのは、やっぱり精神的に満足していた時代があったから生み出されるのだと思う。
誰かを100%信頼していた時代が僕にもあった。
しかし、最近になって、それさえもあやふやに感じるようになってきた。
本当に僕は誰かに信頼され、誰かを信頼していた時代があったのか。
記憶というものには形がない。
形がないものは不安定だ。
人は何かを信じるとき、そこに実感を必要とすると思う。
記憶も実感が薄れていけば自ずと信用性が失われていく。
ただでさえ、孤独を感じるのに、過去の自分の甘い記憶さえ誰かに騙されているように感じる。
いつものようにただ苦しくなる。
そんなときに、そこから僕を救ってくれたのは机の中にしまってあった「いくつもの手紙」だった。
色んな人たちの、手紙を書いた当時の、色んな思いがそこには書かれていた。
それらは僕の曖昧な記憶を、目の前の物質として、確かな実感としてもたらしてくれた。
まるで、過去が僕の目の前に降ってきたかのように、そこに「確かに」存在していた。
手紙が空から降ってきたように思えた。
少なくとも僕はこの手紙達に救われた。
ここで自分の創作の話に戻りたい。
僕は本気で自分を救い、同時に本気で人を救いたいからこそ創作ができなくなってしまった。
そこで少しだけ視点を変えて、自分が「できないこと」から「できること」に着目することにしてみた。
自分が本当に救える可能性があるものは何なのか。
その可能性は自分が救われたと感じたとき、初めて生まれるのではないだろうか。
救われたという実感無くして、誰かを救う何かを生み出すことができるだろうか。
思い出してみれば、僕は沢山のものに救われてきた。
作風が変わってきたのも、それぞれの事物にそのとき救われていたからだ。
それらに救われ、ここまで僕はやってきた。
自分は、多少なりとも人より繊細だと思う。
だからこそ、多種多様なことに救われ、多種多様なことを試してきた。
その自分だからこそ、感じとれるもの。
僕だからこそ救いを感じられるもの。
その与えられた全てが僕であるし、その全てが僕ができることだ。
創作する行為が人を傷つける行為に他ならないというのも、僕が感じとれる確かなことだ。
それらと向き合って、表現できる全てこそが僕の可能性だと感じる。
だから、スランプを抜け出す突破口を、今回の「The letters」にした。
ここでは、手紙という実感に救われてきたと書いたが、その中に記述された言葉そのものに着目することにした。
僕を規定し(不安定にすることもあるが)、救ってくれるのは「言語」だ。
手紙に紡がれた、正に「言葉たち」が僕を救ってくれた。
言語によって僕らはどこへでも行けるし、何にでもなれるし、巨大な壁を作ることもできる。
その中で、現状の苦難の打開としての言語(手紙に記述されていた言葉たちのように)を視覚的に表現することに決めた。
平和の象徴としての鳩を空色の紙から切り取り、閉鎖空間である真っ白なアトリエに飛行させる。
まるで、アトリエ内に空が存在しているように。
僕は認識によって、言語によって、人間が新しい世界へ飛び立てることを信じる。
今まで僕が救われてきたように、これからも言語によって全てを打開する可能性を信じる。
誰も傷つかない世界。
誰もが信頼し合う世界。
それがもし達成できなかったとしても、
本当に、僕は平和を望んでいる。