やっぱり好きな人が日記などを書いていると、考えていることを直に知れて嬉しくなることが多いので、自分も無理なく定期的に思考を書き残しておきたいと思う。

あのゲルハルト・リヒターや波多野さんでさえ、今では絶対に言わないであろうことを書き残しているから、きっと自分も多少おかしなことを書いても罰はあたらないだろう。

 

最近はそこそこ調子がいい。

色々なことの本質を読み取ることができている気がするほど、頭がクリアな状態に感じる。

たぶん、もうすでに昔に書いた日記とはほとんど真逆の意見だったり、思考をしていると思う。かといって、自分の曲だったり、書いたものをほとんど見直さないからわからないけど...

予測ができる自分の変化としては、かなり理性よりも感性に判断を任せる機会が増えてきた気がする。

何かを失敗しないために、または、自分の苦悩を取り除くために、理性を働かせてきたけれど、最近思ったのは人間はどこまでいっても快楽主義であるということだ。それは時にエゴと呼ばれるけれど、人間の本質として、理性的な判断を下そうと衝動的に動こうとそのエゴから逃れることはできないと思う。例えば、ベジタリアンになるみたいな。別に僕はそれを良くないことだとは、もう思わないし、それが自然なのだと思う。その人がどの時点で葛藤のない快楽を得られるのか。それがその人の行動規範になるのだと思う。

 

退院してから、世界に許されているという感覚が日に日に増している。

世界が美しいということ。

このことは自分がこの場所で生きるということに何も言及してこない。できれば、言及してこないとも言いたくない。だからこそ、僕は無条件に許されていると感じる。

 

この事実が自分が「死なずにいれる」理由であると理解してから、僕は、生命が脅かされるほどの葛藤を感じる人間関係の中で、「いかに生きるか」を考えていた。

世界が美しいこと、そこでは論理などどうでもよいこと、自己陶酔的な音楽を聞いたり、一時的な快楽を求めることで、「死ぬことを避ける」ことはできても、社会という場に出た途端、その場所で「生きていけない」事実に直面する。

自分の考えを伝えようとしても、理解してくれない、できない人は大勢いる。というより、ほとんどの人間がそうだと思う。僕はその事実に悩み、苦しみ、何度も人を恨んだり、自分を嫌ったりしたけれど、ふと気づいたことがあった。

 

僕は他人が明らかに無知ゆえに愚かな行動をしていると感じることがよくある。それは、僕の勘違いの時もあるけれど、全てが間違った感覚だとは思わないし、大抵の場合、それを感じた対象はその問題に関して考えたことすらないことが多い。

そこで重要なのは、僕も同様に何かしらについて、確実に無知であり愚かであるということだ。

そしてそのとき、僕が愚かなことを思うことを僕を包む世界はそれを咎めたりしない。

例えばもし、この世界に神がいるとして、その神はきっと、僕が神などいないと思っても、神は存在すると思ってもそれを許してくれると思う。

これはただの例え話であって、実際のことなどわかりようもないけれど、僕は自分もそういう存在でありたいと思った。

それは僕を死なずに留めてくれる世界のようでもあるし、小川未明の童話に出てくる月や、美術の歴史のようでもある。それこそが僕の求める父性や母性なのだと思う。

 

僕は人が愚かであるとき、あまりにも人に対して強くあたり、あたかもその愚かさが、自分にとって人生最大の敵であるかのようにふるまってきたけれど、実際、何事も、殺人者でさえも、完璧に人間をこけにすることなんてできない。

まず、正しさがわかることはその理解を可能にする経験をたまたま得て、たまたまそれを生かせる知能が備わっているということだ。人が何かを理解できるとき、それを理解できない万人に対してその人間は責任がある。

 

だから僕ができるのは、自分ができる限り、自分の信じる正しさを突き進め、人の愚かさによって起こった問題を解決すること、そしてその態度を示すことだろう。そのとき、あわよくばこの正しさに誰かが気がつくかもしれない。それができなかったとしても、その愚かさを許すことが、僕のなりたい月なのだ。