世界に意味は存在するか②

結局、2日にわけてまで僕が言いたかったのは全ての行為に目的を求めた時点で、その意味は無くなってしまうのではないかということだ。

 

昨日はとても、詳しく書きすぎた。

 

日記だからもっとゆるく書くことにする。

 

 

勉強することに意味がないように、世界にも意味がないと思う。

 

そこに目的を見出そうと、意味を見出そうとした時点で僕らは行き詰まってしまう。

 

生きるために必要だからというのも、生きなければ必要ないということになってしまう。

 

こんなことを考えていると何もやりたくなくなるし、死ぬことばかり考える。

 

まさにニヒリズムって感じだけれど、そこで現実に立ち戻る一つの方法として「感覚の支配にしたがう」ことがあると思う。

 

これがずっと有効かはわからないけれど、僕が信じていることの一つなので書いておく。

 

幼い子供にクレヨンと紙を与えると、こちらが何も言わずとも夢中になって絵を描く。

 

小さなおもちゃの楽器を渡せば、ただひたすらその音を鳴らしつづける。

 

当たり前のことだけど、その子供は経済のことや、将来のこと、それをやる意味など一切考えていないだろう。

元来、人間は好奇心に溢れ、何かを夢中になって楽しむことができる性質を持っているように思われる。

 

心理学において、これは内発的動機付けと呼ばれるものらしいが、ある行為をその行為自体が目的として行う動機が人間にはあるということだ。

 

ただ、活動それ自体を楽しむ。

 

これこそが、何も行為できないニヒリズムの打開策になるように僕は思う。

 

何か、自分の楽しめることを行い、活動し、労働し、初めて人間は自立できる。

 

(自立がどうこうっていうのは、また機会があれば書きたい。)

 

 

世界に意味(目的)はないけれど、世界を楽しむこと、それ自体は意味があると信じている。