友人の曲とプレイリスト

結局、物事の意味を考えてしまう。

 

そんなもの自分で決めるものだと、もともとそこには何も無いと知っていても。

 

僕は、現在自分が何がしたいのか、定期的にわからなくなってしまうから、少し考えがまとまった今のうちにまとめておきたいと思う。

まだ頑張り続ける意味とか、自分の存在価値だとか、そんなようなものを

 

 

今のところ、まだ僕は芸術に興味がある。

現代の音楽や、美術に不満を抱いているからこそ、自分が代替案を出せると思っている。

 

音楽は、個人に陶酔する音楽が日本で流行っているように思う。

citypopだとか、ボカロだとか、基本的に聴いている自分自身へ陶酔する音楽だと感じる。

それが、現代日本人の特徴なのかもしれないけれど、そんな態度が他人への配慮の欠如であるとか、危機感の無さを促進させているのではないかと思う。

例えば、人通りのある道で堂々とスケボーを走らせたり、SNS上での配慮の無い、終わることのない無意味なけなしあいだとか、

そもそも、インターネットではもはや自国のことですら、情報が真実かわからないような状態になっていて、現地で自分の目で見ない限り真実か見極められないのに、

 

そんな中で、誠実さだとか、倫理観だとかが重要になってくるのは当たり前だと思う。

個人の誠実さ無くして、安定した生活や社会などできようがない。

 

よく、アーティストだとかアイドルだとかyoutuberだとかが問題行動を起こして取り上げられているけど、それは当然そうなるべきだし、倫理観を持った人間が残り人から尊敬され、有名になるべきだと思う。

 

だから、自己陶酔音楽の否定、誠実さやノスタルジックによる平穏をテーマに自分の曲を作っていきたい。

社会がそうさせているのか、僕自身が好きだからしたいのか、よくわからない。

恐らくその両方だと思う。

 

美術でも、ノスタルジックは共通させたい。

現代美術は商業美術になってしまった。

新しいことをやること、それが今までずっとなされてきたことで、トリエンナーレを見に行くと皆んなこぞって何か新しいものを見せようとしているのがわかる。

 

もう、新しいことをやること、それ自体が古いと思う。

新しい媒体だとか、新しいテーマだとか、新しい発想だとか、

 

生物が海から陸上に上がってきたのは、海の中の生物の個体数が増えて住む場所が無くなったかららしい。

国が戦争を起こすのも、人口が増え、それを賄う為に基本的には起こってきた。

 

繁殖に限界を迎え、新しい境地へ侵略する。

それが生物の生存の本能だと最近思う。

 

なんとなく、これは資本主義に飲み込まれた現代美術にも共通性があると感じる。

 

そろそろ僕らは、この課題を乗り越えなきゃならない時だと思う。

日本は新しいものを作り出すのは、しょぼいものしか作れないけど、運良く元からあるものから独自の文化へ発明するのは上手い国だし、ノスタルジックを感じさせるものも好きな国だ。

だから今の僕は、元からある技術で、元からある発想で、心の安定だとか、祈りとか、ありきたりなテーマで、とびっきりノスタルジーな絵画を描いてみたい。

 

加えて最近少し考えたのは、

理想である神と、現実である自然は真逆の方向性にあると思ったけれど、どちらも言葉や意味のその先にある点で共通してるんじゃないかと感じた。

 

意味や言葉のしがらみを抜けて、真に意味のない、意味の破壊すら必要としない美術、音楽、芸術こそ芸術の価値なのではないかと思った。

 

それは、「Pet Sounds」「ライ麦畑でつかまえて」「カラマーゾフの兄弟」「スラブ叙事詩」のような一見、現実問題を放棄してノスタルジックに走ったように見える作品群が達成している境地なのではないかと思う。

そんな作品たちが、言葉や意味、そしてそれらの無意味性に打ちのめされた人間の心を癒す、最期のオアシスなのではないかと思う。

 

友人が作った曲とプレイリストを聴いていてそう思った。