世界に意味は存在するか①

僕は個別塾で一年と少しほどバイトをしている。

 

そこでいつも悩まさせられるのは、よく聞くこの質問、

 

「勉強する意味あるの?」

 

たぶん生徒としては軽い気持ちで質問をなげかけてきているのだろうけど、毎回僕は回答に困ってしまって悩まさせられる。

 

でも、そこでの返答は既に決まっていて、

「将来の選択肢をなるべく広げておくため」

としている。

 

これは塾講師としての返答にすぎないし、例えば勉強が苦手で計算すらままならない生徒に関しては、別のことを学ぶのに時間を割いたほうがいいのではないかとさえ思う。

 

現代の日本の教育体制は問題であふれているように思うけど、それはまた別の機会があったら書くとして、

 

 

勉強する意味など本当に存在するだろうか?

 

よく子供たちが言うのは(僕も散々言ってきた)、

「将来この勉強がなんの役に立つの?」

というものだ。

 

数学が苦手な生徒であれば、数学に対して、日常の計算ができればよいだとか、絵を描くことや歌うことが苦手な生徒であれば、美術や音楽に対して、就職に全く使えないだとか、運動が苦手な生徒であれば、体育も意味ないと言うことだろう。

 

僕にはこれらのことは全ての教科で言えることだと思う。

英語は将来、英語を使わない分野に行けば必要ないだろうし、国語も日常的な文章が読み書きできれば問題ないし、社会も政治家にでもならない限り意識して生活しなくても生きていける。

 

僕は「将来役に立つか」という主張の危うさは、

『経済がすでに存在している社会で意味を考えようとしている』ところにあると思う。

 

たしかに、今の社会で英語ができれば将来的にいい給料がもらえる可能性は高くなるだろう。

しかし、そのことと英語を勉強することに意味があるかということは別問題である。

 

例えば、もし英語を勉強しても経済的安定を得られない社会だとしたら、英語を勉強する意味というのは無くなってしまうのではないか。

 

つまり、その主張をしている人が意味があるとしているのは英語自体ではなく、経済的な利益でしかない。

 

そこに、英語の勉強の正当性は含まれない。

 

 

 

次の日に持ち越し。