現代アートとは何か/最終日
現代アートとは商業美術であると前回結論付けた。
なんでもありの現代アート界で、正しさとは何なのか。
まずそれを考えるためには、デュシャン以前の美術が僕たちにどのような結果を与えたのかを考えなければならない。
人は安心を求めて感動を欲し、芸術を欲すると説明した。
しかし、すでに論じたように今までの芸術ではその結論が「死」に直結してしまう。
つまり、現実的に生きていこうとすると結論と行為に矛盾が生じてしまうのだ。
では、僕たちが死なずに安心を得るためにはどうすればよいか。
周りの人間を変えるのである。
自分の感動を求めていっても安心が得られないのであれば、その不安定を作り出している環境自体を変えてしまおうということである。
僕にはこの感覚を持って作品を制作している作家が現代アートのトップ層に多いように思われる。
社会的問題を取り上げ、鑑賞者を挑発する形でその問題に向き合わせる。
それによって鑑賞者の思考を変化させ、社会全体を良い方向に導こうとする。
これが、現代アートに刺激的で目を背けたくなるような作品がある所以だと考える。
初日に紹介した会田誠の犬シリーズは、意図的に性や人間の尊厳に関して議論が生まれるように仕組まれた作品なのではないか。
→犬シリーズ | miki okubo, art-écriture-esthétique
この作品を見て不快感を覚え、これが芸術だからといって許されるのか、という指摘がよくSNS上で見られる。
しかし、その指摘をしている人間は、もしかしたらこの作品を見る前は、性の問題や、人間の尊厳に関する問いに関して全く考えたことがなかったかもしれない。
それらの問題に気づかせ、鑑賞者に新たな倫理を構築する。
地道ではあるが、このようにして内側ではなく外側から安心を創り出そうということである。
現代アーティストがみんな同じことを考えているとは思わない。
全くこんな事を考えず、作品を作っている作家もいるだろう。
現代アートとは商業美術であった。
だから、目を引けさえすればそれが芸術の正当として評価される。
デュシャンの「泉」を単純に芸術の「固定観念を壊した作品」と考えると、「考えること」自体がアートということになり、「新たな思考」をテーマに作品を製作する現代アーティストも大勢見られる。
しかし、それでも僕は、デュシャン以前の歴史を踏まえつつ、発展させた正当性を持った現代アートの作品は、「社会的問題を取り上げた作品」だと思う。
あとは、何が売れ、正当となるかだ。
最近、日本で展覧会が開かれたバンクシーは現代アート界で世界的にトップだと考えられるが、インタンビューでこんなことを言っている。
「アートの役割は、みんなに社会的問題を認識させることだ。」
彼は、ポップアートから影響を受けた大衆的な売れる作品を作りつつ、常に社会的問題をテーマにしたものを製作している。
→【美術解説】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース
歴史的に考えても、彼がアート界の一番になってしかるべきだと思うし、人の目を引く売れる作品を作っているのも評価できる。
今のところ、歴史は断続することなく、しかるべき能力を持った人間がしかるべき正しい美術を進めているように僕は感じる。
これが僕の現代アートに対する認識の全てだ。
散々、正当性がどうとか言ってしまったが、何度も繰り返すが、現代アートは商業美術である。
だから、ずっと美しい絵を描いていてもいいし、新たな発想を提示する作品を作ってもいい。
現代アートは商業美術であるがゆえに、多様性を持つ文化だとも思う。
例えば、草間彌生は全く社会的問題を感じはしないが売れているアーティストの一人だ。
多様性もあるということをみんなにはもう一度確認してほしい。
それに加え、散々会田誠やバンクシーを褒めちぎったが、僕はこれから彼らの正面から論理的に戦う対抗馬が出てくると予測している。
ここからはもはや、現代アートのその先の不確定すぎる話なので、語ることは控えたいと思う。
いつかその日が訪れるまで。