現代アートとは何か/4日目
前回、最後に論理が飛躍したように思われたかもしれない。
僕の「人間が感動を求めるのは死にたいから」というのは精神科医のジークムント・フロイトが展開した「死の欲動」と呼ばれる考え方に着想を得ている。
他に似たものを感じる作品として、小説家である坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」や、最近では会田誠の「げいさい」がある。
もし理解を深めたいと感じてくれたのなら、これらを調べてみることをお勧めしたい。
デュシャンの話に戻ろう。
つまり、僕が言いたいのはデュシャンが「泉」によって示したかったのは「虚無」だったのではないかということだ。
美しくもなく、唯一でもなく、作者も存在しない対象から、彼は絶対的な「安心」を見出したのだと僕は思う。
絵画の歴史はより抽象的に、より包括的な感動へと発展してきた。
その包括的な感動の最終的な解が、デュシャンの示した「虚無」であり、それによって絶対的な「安心」は達成されたのだ。
果たしてデュシャン本人はそこまで考えていたのか、芸術の固定観念を壊したかっただけではないのか、と思うかもしれないが、僕が自分の理論を信じる一つの根拠として彼のインタビューの中のこんな発言がある。
「ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解したかぎりでは、すべてはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。
ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです、このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。
眼がブラック・コーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。ほかの残りは、いつもトートロジーです。」
この発言が本当だとすれば、デュシャンは感覚の支配に対しては真実を見出していたと考えられる。
このような発言をする人間が、感覚を伴わない「新たな思考の創造」だけを目的として作品を制作するだろうか。
デュシャンの「泉」よって、それまで明確に発展を遂げてきた絵画には終わりが訪れてしまった。
そう、美術の発展はここで完成され、終わってしまったのだ。
では、その後美術はどうなったのか。
美術は大きな一つの目的を持たない文化となった。
商業美術の始まりである。
デュシャン以降の美術の大きな流れとして起きたのは、アンディ・ウォーホルが作り出した「ポップアート」と呼ばれるものだ。
→【美術解説】アンディ・ウォーホル「ポップ・アートの巨匠」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース
最も大衆的なもの、最も売れたもの、最もその時代に則したものが美術の歴史に名を刻んでいくようになったのだ。
もっとわかりやすく言おう。
美術は映画、ポップミュージック、ファッションのような流行りが評価される文化となった。
例えば、ビートルズとビリー・アイリッシュを比較して、曲の音色の差こそあれど、どちらが思想的に発展していて優れていると言えるわけではないだろう。
昔の絵画はそれが、「包括的な感動」という尺度で測ることができた。
しかし、現代アートには一つの尺度がない。
その時代の流行りだけが、作品の評価を決定するのだ。
これが現代アートの礎である。
だから、人の目を引くものであればどんな形式であっても作品は評価される。
現代アートの混沌ぐあいの原因はここにあると思われる。
正しさが問われない分、なんでもありの時代になってしまった。
しかし、この時代にも正しさを追求する人たちがいる。
美しいもの、感動するものの究極は「虚無」であり、「死ぬこと」だった。
しかし、僕たちは今、生命として生きているし、生物の本能的に死ぬことへ恐怖を抱いてしまう。
死なずに現実と向き合って生きていくには、どのような指針、正しさを持てばよいのだろうか。
次の日記で現代アートに対する思考は最後になると思う。