現代アートとは何か/3日目

昨日の日記の内容で、もう一度強く念押ししておきたいことがあるので補足する。

抽象画を描いていた画家たちの意識についてだが、彼らは抽象画に対して確実に、写実画を越えた表現性を見出していた。

これが少し理解しづらいと思われたので、より具体的な説明を試みようと思う。

 

 

彼らの時代では、あらゆる芸術の中で最も優れた芸術は音楽と考えられていた。

 

歌詞のない音楽には形がないだけでなく、皆が同じ音階を聞いて同じ事物が想像されることもない。

 

歌詞や曲名すらない音楽はただ雰囲気が感じららるだけで、具体的な事物のイメージには繋がらないのだ。

 

なぜこれが優れているとされたのか。

 

 

例えばあなたが誰かに対して恋心を抱いたとしよう。

この恋心をテーマに曲を作ったとしたら、

 

ある人は異性同士の恋愛の曲だと思うだろう。

しかし、またある人は同性同士の恋愛の曲と思うかもしれない。

またまたある人は、人間以外の生物、または物質への恋愛だと捉えるかもしれない。

 

 

このように、何かの具体的な情報を含まない抽象的な作品は、さまざまな状況から感じられる感覚を包括的に表現し得るのだ。

 

これがまさに抽象画によって画家達が目指したことであり、この包括的な感動がより強烈な表現性を持つと彼らは考えた。

 

抽象画がなぜ画家たちを感動させたか、分かってもらえただろうか。

 

 

さて、この包括的な感動を求める旅はある一つの作品によって終わりを告げる。

 

マルセル・デュシャンの「泉」である。

【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

(ここからの論理はほとんど筆者による推察でしかなく、どこかに決定的な画家の証言などがあるわけでもない。せいぜい筆者独自の理論でしかないことをご理解いただきたい。)

 

説明するまでもないかもしれないが、「泉」は男性用便器である。

 

ただの男性用便器にサインを入れただけの作品だ。

 

なぜこれが芸術作品になりうるのか。

 

さまざまな本やweb上でその理由が書かれているが、内容をまとめるとこんなものだ。

 

 

「男性用便器はもちろん排泄物を受けるものだから美しいものでもないし、大量生産されているから唯一のものでもない。さらに言えば、そもそも芸術作品を作ろうとして造られたものでもない。

これらは全て意識されていなかった芸術における固定観念を壊してしまった。

その新たな発想自体が評価するに値するのだ。」

 

結局は、「新たな思考の創造」が評価されているということだ。

 

 

しかし僕は、デュシャンが「泉」にて行いたかったのは「新たな思考の創造」ではなかったと考えている。

 

 

これを説明する前に一度、考えてもらいたい内容がある。

 

「人はなぜ感動を求めるのか」についてだ。

 

そもそも芸術に対して僕らは何を求めているのか。

 

人が感動を求めるのは、例えばジェットコースターや映画が流行ったり、それこそ音楽や絵画、美しい景色を見たいと思うことや、過去の記憶を思い出しノスタルジックな気分に浸るのも含め、自明のことだと僕は思う。

 

ではなぜ人は感動を求めるのだろう。

 

 

僕は人間が「安定を求めるから」だと考えている。

 

生きているだけで、僕らにはさまざまな苦悩がある。

物理的にも精神的にも僕らの周りには不安の種がばら撒かれおり、それはポジティブな人間もネガティブな人間も同じことだろう。

 

それらからの「安定」をはかり、快適に生きていくために人は感動を求めるのではないだろうか。

 

しかし、その「安定」にも時間が経てば、終わりが来てしまう。

 

絶対的で揺るがない「安定」はどこにあるのか。

 

それは「虚無」でしか達成されないだろう。

 

そもそも人間は生まれてしまった時点で親から言葉を教わり、あれはいい、これはだめと教育される。

僕たちは生まれてしまった時点で言葉によって安定状態を分断されてしまう。

 

「存在する」こと自体が、不安定の要因なのだ。

 

だから、究極に「安定」を求めた人間が行き着く先はまさに、「虚無」なのではないだろうか。

 

つまり、人間が感動を求めるのは「虚無」になりたいから、

 

「死にたいから」だと僕は考える。

 

なんだか宗教的で怖い人だと思われそうだけれど、、、

 

眠いので今日はこれくらいにする。