些細なこと
日記が滞ってしまいました。
その理由はただの怠惰によるものでもあるけれど、別の理由をあえて述べるなら、自分の考え方みたいなものがまとまってきたからだと思います。
自分の核が定まった(少なくとも現時点ではそう思う)ために、何かしら長い文章で書くべきものが無くなってしまいました。
だから、ほとんど今考えていることと言えば、直近の出来事に対しての感想くらいなので、もはや考えていることを長文でまとめるようにして始めた日記も書く必要がなくなってしまいました。
しかし、この日記を見てくれていた人が何人かいたようなので、ごく些細なことでも、ツイートするには少し重い内容のことは書き続けようと思います。
少しでも見てくださっていた方ありがとうございます。
創作物というもの、それが何かしら高尚なものでなかったとしても、私が作り出したもの全てはそれを見てくれる人がいなければただの物質にすぎません。
これを読んでいるあなたがいること、その事実こそがまさに、この日記を一つの表現物としてあらしめている要因に他なりません。
僕は記憶が残りづらい人間です。だから、出来る限り自分の考えていたことをくまなく書くことができるようにこの日記と、普段のツイートをしていきたいと思います。
最近の出来事といえば、この大衆文化を敬遠しがちな僕が「鬼滅の刃」にはまりました。
今、漫画を読み進めている最中なので、読み終わったころに感想を書きたいと思っています。
時間が空いてしまいすみませんでした。
奇跡
人間は同じ夢を見ることができる。
これがどんなに奇跡的か、君はわかってくれるだろうか。
鉄棒
最近、僕は決して初めからなんでもできた人間じゃないということに気がついた。
僕は絵がそこそこ描けるし、曲だって作れるし、勉強も平均よりできて、鉄棒が得意だ。
それらが最初から自分は得意だったって思っていたけれど、全然そんなことはなかった。
ちゃんとそれぞれの記憶を思い出せば、
初めて美術予備校に行ったときは自分の画力の無さに絶望したし、
小さな恋のうたのギターに苦戦していたし、
算数の割り算はわからなかったし、
前まわりはすごく怖かった。
もともと僕は何もできなかったはずだ。
ちゃんと成長している。
向き合い続けて僕は、確かに強くなっている。
逃げないこと、続けること、信じることを僕はやめない。
修業
もっとたくさんの人達と関わって、
打ちのめされなければいけない。
世界に意味は存在するか②
結局、2日にわけてまで僕が言いたかったのは全ての行為に目的を求めた時点で、その意味は無くなってしまうのではないかということだ。
昨日はとても、詳しく書きすぎた。
日記だからもっとゆるく書くことにする。
勉強することに意味がないように、世界にも意味がないと思う。
そこに目的を見出そうと、意味を見出そうとした時点で僕らは行き詰まってしまう。
生きるために必要だからというのも、生きなければ必要ないということになってしまう。
こんなことを考えていると何もやりたくなくなるし、死ぬことばかり考える。
まさにニヒリズムって感じだけれど、そこで現実に立ち戻る一つの方法として「感覚の支配にしたがう」ことがあると思う。
これがずっと有効かはわからないけれど、僕が信じていることの一つなので書いておく。
幼い子供にクレヨンと紙を与えると、こちらが何も言わずとも夢中になって絵を描く。
小さなおもちゃの楽器を渡せば、ただひたすらその音を鳴らしつづける。
当たり前のことだけど、その子供は経済のことや、将来のこと、それをやる意味など一切考えていないだろう。
元来、人間は好奇心に溢れ、何かを夢中になって楽しむことができる性質を持っているように思われる。
心理学において、これは内発的動機付けと呼ばれるものらしいが、ある行為をその行為自体が目的として行う動機が人間にはあるということだ。
ただ、活動それ自体を楽しむ。
これこそが、何も行為できないニヒリズムの打開策になるように僕は思う。
何か、自分の楽しめることを行い、活動し、労働し、初めて人間は自立できる。
(自立がどうこうっていうのは、また機会があれば書きたい。)
世界に意味(目的)はないけれど、世界を楽しむこと、それ自体は意味があると信じている。
世界に意味は存在するか①
僕は個別塾で一年と少しほどバイトをしている。
そこでいつも悩まさせられるのは、よく聞くこの質問、
「勉強する意味あるの?」
たぶん生徒としては軽い気持ちで質問をなげかけてきているのだろうけど、毎回僕は回答に困ってしまって悩まさせられる。
でも、そこでの返答は既に決まっていて、
「将来の選択肢をなるべく広げておくため」
としている。
これは塾講師としての返答にすぎないし、例えば勉強が苦手で計算すらままならない生徒に関しては、別のことを学ぶのに時間を割いたほうがいいのではないかとさえ思う。
現代の日本の教育体制は問題であふれているように思うけど、それはまた別の機会があったら書くとして、
勉強する意味など本当に存在するだろうか?
よく子供たちが言うのは(僕も散々言ってきた)、
「将来この勉強がなんの役に立つの?」
というものだ。
数学が苦手な生徒であれば、数学に対して、日常の計算ができればよいだとか、絵を描くことや歌うことが苦手な生徒であれば、美術や音楽に対して、就職に全く使えないだとか、運動が苦手な生徒であれば、体育も意味ないと言うことだろう。
僕にはこれらのことは全ての教科で言えることだと思う。
英語は将来、英語を使わない分野に行けば必要ないだろうし、国語も日常的な文章が読み書きできれば問題ないし、社会も政治家にでもならない限り意識して生活しなくても生きていける。
僕は「将来役に立つか」という主張の危うさは、
『経済がすでに存在している社会で意味を考えようとしている』ところにあると思う。
たしかに、今の社会で英語ができれば将来的にいい給料がもらえる可能性は高くなるだろう。
しかし、そのことと英語を勉強することに意味があるかということは別問題である。
例えば、もし英語を勉強しても経済的安定を得られない社会だとしたら、英語を勉強する意味というのは無くなってしまうのではないか。
つまり、その主張をしている人が意味があるとしているのは英語自体ではなく、経済的な利益でしかない。
そこに、英語の勉強の正当性は含まれない。
次の日に持ち越し。
自立
取り組むこと、自立すること、許すこと
この順序で愛情を育む